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Konstanz als Heimatstadt

苅部直・移りゆく「教養」

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

教養に対する考え方が時代とともに変遷していく様子が分かります。


「教養」という言葉はいろいろな文脈で使われますが,それがどのような経緯をたどって現在のようなイメージになったのか,そして「教養」を問うことはどのような意味があるのかを考えさせるのが本書です。本学の大学生協でもよく売れているそうです。
歴史をたどると「教養」が最初にクローズアップされたのは,マルクス主義運動が壊滅して思想の空白状態が訪れた1930年代頃であるそうです(本書・45頁)。既にその時から,教養のない学生,ないし教養を求めようとしない学生を批判し,社会での有用性を含む教養を得ることが推奨されるという構図ができています。これに対し,ヨーロッパの教養伝統は社会生活における実践も含めた人間全体を育て上げる営みを指し,日本の「教養」がイメージする古典に対する知識という傾向とは違うものであるようです(本書・92頁)。
本書の面白さを乱暴にまとめると次の2点にあると思います。1つは,政治的教養の営みが日本社会でも至る所に生きているという指摘です(本書・128頁)。長野県飯田市における地域文化活動あるいは公民館運動を取り上げることで,草の根レベル・地域社会レベルにおける「教養」のあり方の一つのモデルが示されています。もう1つは,教養を身につける上で不可欠なのは,読書・音楽・映画・漫画などの文化的作品に接していること,特に本を読むことであると指摘していることです(本書・204頁)。本を丹念に読むこと,しかし著者の立場とは距離を置き,自己と対話することの重要性が,本書では何度か指摘されています。
本筋とはあまり関係がありませんが,「専門家」とは何かをめぐる以下の文章にはなるほどと頷かされました(本書・8頁)。

医療にかかわる知識をたくさん蓄えていることが,医者の第一の条件であるが,それだけで一人前の専門家と言われるわけではない。いま直面している患者の容体を確認して,それに関連しそうな知識をみずからの記憶からいくつもひきだし,その状況に用いるのが適切でないものを選び捨てた上で,残った知識をくみあわせ,その患者にふさわしいように適用してゆく。そうした知の働きに対する信頼が,専門家への尊敬を,もともとは支えている。この知の働きは,昔ながらの表現を用いれば,「知恵」とか「賢慮」とか「判断力」といった言葉で言い表されるものなのである。