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Konstanz als Heimatstadt

片山杜秀・近代日本の右翼思想

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

日露戦争以降の日本近代思想史を右翼思想の観点から検討しています。


(最近[読書]カテゴリを立てることができていませんでした。これは時間がなくて本が読めなかったからではなく,いつも通りのペースでは読んでいたものの,このカテゴリで紹介できるだけの内容を持ったものになかなか出会えなかったためです。)

本書のタイトルからすると,明治以降の右翼思想を扱っていると想像されますが,本書が主として議論の対象としているのは日露戦争から第二次大戦期までの期間であり,かつ通常は「右翼」思想と考えられていないような西田幾多郎・阿部次郎といった思想家も登場します。これは,日露戦争以降の日本社会が精神史的にも「近代」と位置づけるべき特性を持っていることと,戦前日本においてごく少数以外は右翼であったとする丸山眞男の見解に依拠してのことです(本書・15頁)。その結果として本書は,この時期における思想史全般を実質的には議論することになっています。
本書は近代右翼思想の展開を4章に区分しています(「右翼と革命」「右翼と教養主義」「右翼と時間」「右翼と身体」)。この区分にも本書の主張が強く表れています。右翼思想は,現状に不満を持ち,崩壊寸前の伝統といった過去のものにひとつの理想を見出します。しかし日本の近代右翼思想はどこに注目しても必ず最後に天皇と結びつけたため,「過去の代表者でありつつ現在の日本も支えている天皇に導かれ,ねじれて現在にのめり込み,現在を礼賛して終わるという性向」を有してしまうと本書は分析します(本書・11頁)。そうした近代右翼思想の悩み・ねじれが最も鮮やかに描かれるのが第1章「右翼と革命」であり,ここでは近代右翼のキーワードともいうべき「超国家主義」の意味内容を問いながらこうした過程が説明されています。その結果,現状肯定的な思想が展開し,思考よりも「美しい様」が重視され,結果として時代を1945年まで導いてしまったのではないか,というのが著者の見立てです(本書・227頁)。戦前までの日本の思想史を考える上で見落とされるべきでない要素が多数指摘されており,同時期の左翼思想との相互作用の過程や比較分析をするとなおおもしろいのではないかと感じられました。