ernst@hatenablog

Konstanz als Heimatstadt

内橋克人・日本の原発,どこで間違えたのか

日本の原発、どこで間違えたのか

日本の原発、どこで間違えたのか

原発問題を考える様々な要素を提供しています。


福島第一原子力発電所の事故を受けて,原子力関係の出版物にも動きがありました。福島原発のような全電源喪失の事故の危険性を以前から指摘していた『新版 原発のどこが危険か 世界の事故と福島原発 (朝日選書)』が新版というかたちで再度出版され,末尾の部分に福島事故に関する短い解説が付されています。これに対し本書は,1986年に出版された『原発への警鐘』(講談社)の復刻版で,序の部分で現在の状況についての言及がなされています。前者がかなり技術的な内容を中心にしているのに対し,後者の本書は一般向けの記述になっています。
日本のこれまでの原発政策や今後の展望を考える上で最も重要だと思われる指摘を,本書はその冒頭部分で行っています(本書・2頁)。

この国においては,人びとの未来を決める致命的な国家命題に関してさえ,「国民的合意」の形成に努めようとする試みも,政治意思さえも,ほとんど見受けられることはなかった。国の存亡にかかわるエネルギー政策が,原発一辺倒に激しく傾斜していった過程をどれだけの国民が認知し同意していたであろうか。
後述のように原発廃棄を住民投票によって決める─などの選択はおよそ政治志向の範囲内に位置を占めた痕跡さえ認められない。強権的な政治意思を背景に原発エネルギー依存体制に進路をとってきたがゆえに,逆にエネルギー選択の多様性が狭められた。ますます原発に傾斜せざるを得なくなってきた。いま,その咎が自らの身に跳ね返った現実を挙げておかなければならない。「原子力ルネッサンス」との流行語のもと,少なくとも,これまで自然・再生可能エネルギーなどへの技術的可能性も意思も真の意味で開花することはなかった。

原発の賛否をめぐる議論はこれまで聖域扱いされ,あるいはイデオロギー対立として位置づけられることで,その深化が妨げられてきた印象があります。日本の現行法制を見ても,原発に関しては安全規制法は存在しても,その促進や立地計画に関係する法制は極めていびつで外部から非常に分かりにくいものになっています。原発議論は民主主義の試金石であると発言したサンデル教授の指摘はまさに日本社会にとっての喫緊の課題のように思われました。