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Konstanz als Heimatstadt

猪木武徳・自由と秩序

自由と秩序―競争社会の二つの顔 (中公叢書)

自由と秩序―競争社会の二つの顔 (中公叢書)

現代の日本社会を構成している基幹的要素である「民主主義」と「市場経済」について経済学の観点から多面的な分析を試みているのが本書の特色です。現在問題となっているような様々な論点について,同書は多くの示唆を与えてくれます。読み手の関心に応じて,それぞれの読み手なりのlessonが導き出せるという点では,論文・小論文のネタ探しにはぴったりなのかもしれません。
同書は国家と個人の二項対立,利己的個人と市場との二項対立に対して疑問を投げかけ,中間的組織の必要性を主張しています。この点では現在リライト中のD論と議論の方向性は共通です。この点に関する同書の意味合いについては今しばらく精査したいと考えます。そこで今回は,D論とは無関係な分野についての同書の記述の中で,注目すべき部分を引用します。

「いまや大学では,いかに学生の好奇心を喚起するか,どうすれば授業内容を面白く感じさせるか,ということに多くのエネルギーが使われるようになった。教える側のそうした「サービス精神」もある程度必要だが,学生が苦痛と感じることを強制し,訓練するという要素が忘れ去られそうになっている。語学を学ぶのも,数学を学ぶのも,こうした反復と訓練という要素を抜きにしては成り立たない。権威を持って人格を媒介としつつ訓練するという姿が教場から消えてしまうことが,教育を貧しくする最も危険な要素なのではなかろうか。「いやなこと」でも時には我慢してやる,という精神は不可欠なのである。」(同書・136頁)

大学における「授業」の役割について,個人的には次のように考えています。高校までの授業と違って,大学における授業はそれ自体完結したものではありません。むしろ授業は個々の学習者が学習を進める上での刺激に過ぎず,逆に言えば授業の前後(平たく言えば「予習」「復習」の部分)はオープンになっています。学習者にとって興味深いものとなるよう授業する側が配慮することは当然ですが,学習活動の多くが学習者側にある状況を前提とすれば,次の2点が重要だと思います。
第1に,学習者の学習活動を促進させる「場」を設定したり,考えるための方向性のみ示して結論は明示しないといった,ソフトな枠組設定が授業する側には必要だということです。このことはとりわけ演習形式の授業にはあてはまると思います。ソフトとはいいながらも,ある種の「権威」を生かしたプレッシャーによって学習者の潜在能力を引き出すことも時には必要でしょう。もちろん,その際には学習者との信頼関係が前提となります。
第2に,こうした大学における「授業」の特質と,学習者に求められるスキルについて,学部の初期段階できちんと情報提供することです。高校生までの勉強方法とは決定的に異なっている大学以降の勉強方法について,現状ではアクセスのルートがあまりに狭いことは否定できません。学習者の自己努力も当然必要ですが,授業する側にも「勉強方法」に関する積極的な情報提供が期待されます。

同書はこのほか,社会科学系の高等教育の不毛を問題として指摘しています。近年相次いで設立されたロースクールビジネススクール・公共政策大学院はこれに対する一つの処方箋ではあります。ただこれらが期待された役割を果たしうるかどうかは,高等教育終了後の進路の問題のほか,そこで授業する側のあり方も大きな要素となるものと思います。