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Konstanz als Heimatstadt

黒岩比佐子・日露戦争 勝利のあとの誤算

日露戦争 ―勝利のあとの誤算      文春新書

日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書

日露戦争後の国内混乱の様子を丹念に描いた作品です。


日露戦争の講和に反対する日比谷の焼き討ち事件は歴史の教科書にも登場する有名な事件です。本書はこの焼き討ち事件を中核にして,日露戦争の前後における政府と新聞との相互関係を,豊富な史料を使って描いています。
日露戦争の相手方であるロシアでもこのころ,血の日曜日事件と呼ばれる事件が起こっています。当時の政府の中枢はこの事件と日比谷の焼き討ち事件とをパラレルに考え,国家体制の維持についてかなりナーバスになっていたようです。庶民の不満を背景に新聞は講和反対を主張,これに対して政府は戒厳令を出し,東京朝日に発行停止を命じます。この一連の動きの中には,政府によるメディア利用の巧妙さがよく描かれています(同書・212-213頁)。

たしかに,新聞は桂にうまく利用されてしまった。戦争に向けて国民を煽ったのは新聞であり,政府に協力して,戦争中の挙国一致体制をつくるのに貢献したのも新聞だった。しかも,政府は外交上の機密を新聞にはいっさいもらさず,いわば味方も欺く形で戦争を講和に持ち込んだ。賠償金はとれず,樺太も半分のみを得ただけだったが,政府にとっては,この戦争における当初の目標を十分達成した,といえる結果だったのである。
ところが,対外硬の人々が出てきて「賠償金三十億円」などと国民を煽り,新聞もそれに調子を合わせたため,あの九月五日の騒ぎになってしまった。そのことを,三山はいまやはっきりと自覚していた。桂にしてやられたという怒りが収まれば,あとは自嘲するしかない。
政府は戒厳令の発動という非常手段までとって,着々と次の手を打ってきている。ならば,新聞もいつまでも講和反対を叫んでいてもしかたがない。三山はおそらくそう考えたのだろう。発行停止が解除されてからの『東京朝日』の社説は講和問題ではなく,戦後処理の問題を取り上げている。論調が変わった,と朝日の社内からも非難を浴びたらしいが,ジャーナリストとして,日露戦争後の諸問題に視線を向けるのは,むしろ当然のことだった。
それとは対照的に,『大阪朝日』は,講和反対と桂内閣攻撃を十月まで続け,十一月になっても発行停止処分を受けている。前述したように,これは社長の村山の方針でもあったわけだが。政治の中心である東京にいる三山と,大阪にいる村山とでは,政局への認識の差がずいぶんあったのである。

本書にはさまざまな要素が盛り込まれており,新書サイズとはいえそれらを十分に消化するにはかなり難しい印象です。中でも一番興味を惹いたのは,日露戦争から第二次大戦に至るわが国の道筋を考えた場合に,日露戦争前後に見られた危険な芽です。上記のメディア操作もその一つでしょう。また,いわゆる捕虜の問題もまたその一つです。日露戦争までの日本は,国際法上の捕虜の取り扱いを遵守し,ロシア人捕虜を大切に扱ったという話はよく聞きます。本書でも史料をつかってそれをいくつか示しています。他方で,日本人捕虜に対する国内の冷たい扱いが始まったのは日露戦争からであるようです。華々しい兵士の凱旋の陰で,捕虜をも歓迎すべきかどうかという問題がメディアでも取り上げられ,これを消極に解する考え方が芽生えてきたことを同書は示しています(同書・264頁)。

日本人俘虜を,凱旋してくる兵士と同等に歓迎すべきではない,という意見があったことがわかる。生きて敵軍に捕らえられるのは不名誉だ,という意識もすでに生じていた。兵士にとって,俘虜として屈辱的な生活に耐えたのち,母国に戻っても「国民的制裁」を受けることが予想されれば,捕らえられるより自決する,という道を選択する者が出てきても不思議ではない。「生きて虜囚の辱めを受けず」という,一九四一年に全陸軍に下されたあの戦陣訓が招くことになる悲劇のプロローグは,この時点から始まっていた。

日露戦争後の日本社会の変容を考える上でも興味深い視角を提供してくれる一冊です。