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Konstanz als Heimatstadt

大村はま・新編教えるということ

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

専門職としての教職の誇りと心構えを伝える作品です。


著者は高等女学校教師から新制中学教師に転じた,中学校国語教育のカリスマ的存在であり,本書は教員研修や講演における著者の講話「教えるということ」「教師の仕事」「教室に魅力を」「若いときにしておいてよかったと思うこと」の4編をおさめています。一番古いものは1970年,新しいものでも1986年の作品で,それからずいぶんと時間が経ち,世の中も変わりました。それでもこれらにおさめられている著者のメッセージは時代を超えて通用するものであるように思います。
本書全体を通じて著者が伝えようとしているのは,プロフェッショナルとしての教師・教職のあり方です。研究しないと先生の資格はない(本書・27頁→後掲),「読んできましたか」と言う教師は教職の役割を果たしていない(本書・37頁),静かにしなさいと言ってはいけない(本書・72頁),など,一見すると驚くキャッチコピーも,よく読むとこうした教師の専門職としての心構えを説得的に説いています。教師のあり方を考える一つの原点としての地位を,本書は今もなお保ち続けているように感じました。本書のエッセンスが最も出ていると思われる一節を,(自戒の意味も込め)長いですが引用したいと思います(本書・27-28頁)。

なぜ,研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと,子どもというのは,「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。いくつであっても,伸びたくて伸びたくて…,学力もなくて,頭も悪くてという人も,伸びたいという精神においては,みな同じだと思います。一歩でも前進したくてたまらないのです。そして,力をつけたくて,希望に燃えている,その塊が子どもなのです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず,子どもと同じ世界にいない教師は,まず「先生」としては失格だと思います。子どもと同じ世界にいたければ,精神修養なんかではとてもだめで,自分が研究しつづけていなければなりません。研究の苦しみと喜びを身をもって知り,味わっている人は,いくつになっても青年であり,子どもの友であると思います。それを失ってしまったらもうだめです。いくら年が若くて,子どもをかわいいというまなざしで見たり,かわいいということばをかけたり,いっしょに遊んだりしたとしても,そんなことは,たわいもないことだと思います。いっしょに遊んでやれば,子どもと同じ世界にいられるなどと考えるのは,あまりに安易にすぎませんか。そうではないのです。もっともっと大事なことは,研究をしていて,勉強の苦しみと喜びとをひしひしと,日に日に感じていること,そして,伸びたい希望が胸にあふれていることです。私は,これこそ教師の資格だと思います。