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Konstanz als Heimatstadt

石崎津義男・大塚久雄 人と学問

大塚久雄 人と学問

大塚久雄 人と学問

大塚久雄の生き方が印象的に描かれています。


大塚久雄といえば,専門の西洋経済史のみならず,社会科学という範疇でも戦後日本を代表する大学者です。学部時代から機会あるごとに(きちんと理解できたとは決して言えませんが)いろいろな作品に触れる機会がありました。
本書は,大塚久雄著作集の編集者として編集に関わった著者に,大塚久雄が語った内容を系統的に整理したもので,通常の伝記とは違うつくられかたが,逆に大塚久雄の人となりや学問への姿勢をヴィヴィッドに伝えてくれます。健康の面でも,また研究者としての駆け出しの頃にも,大塚は決して恵まれておらず,むしろ悪条件続きだったことがよく分かります。にもかかわらず大きな成果を残すことができたのはなぜだったのか,いろいろ考えさせられました。
大塚久雄は教育の面でも熱心だったようです。それを伝えるエピソードを引用して本書の紹介を終えます(本書・47-49頁)。

助教授になった大塚は大学の講義に集中度を高め,もっぱら学問的レヴェルを落とさないように努めた。
ところが学生のほうはきわめて冷淡で,試験を受けるために聴いてはいるけれど「つまんないなあ」という顔をしている学生が,教室のあちこちに目につき始めた。
それは話しているほうでも気になった。せっかく授業料を払って勉強しに来ているのに,わからぬ話を聞かせてもしようがない。なんとか出来ないものかと考えた。
これは一にかかって自分の話術にあると大塚は思った。彼は幼児のとき謡曲を習ったせいか,身体に似合わず声は大きかったし,言葉もはっきりしていた。問題は話し方に違いない。
そこでまず近所の子どもや知り合いの子どもを相手に童話を話したり,いろいろなお話をしてやることを始めた。そうこうしているうちに,子どもたちのほうから,「お話をしてちょうだい」とやってくるようになった。これは話し方が成功したことだと思った。一つの自信にはなった。
その上で今度は落語について研究した。噺し家がいかにして客を引きつけているか,その噺し方を勉強した。こうした努力は大塚の話し方に成果をもたらした。
大塚は教室でノートを読むようなことは一切しなかった。メモは持っていったが,それを見ることはほとんどなかった。講義の内容は前日に整理して頭の中に入れた。それから今度はそれを出来るだけ忘れようと努めた。忘れてしまうことはさほど重要ではない,重要なことは頭に残っているはずだと考えたからだ。
講義は学生の顔を見てその反応を見ながら話すことにした。わからないような学生が見えれば,その学生がわかるように話した。そしてときどき学生が喜ぶような余談を間に入れた。これは大成功で,聴いている相手を自分の話の中に引き込んでいく結果となった。