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Konstanz als Heimatstadt

柳 治男・<学級>の歴史学

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

学級の意義を考えさせてくれる本です。


今や遠い過去になりつつありますが,かつて小・中・高校生だった頃は,4月のクラス分けの悲喜こもごもが毎年展開されていました。担任の先生のパーソナリティのみならず,その1年を過ごす上で重要なのは,どんな人がクラスに入っているかということでした。本書はなぜ学級という存在が登場したのか,それを歴史的に明らかにした上で,その空間を自明の前提とすることを諫めています。
本書によれば,学級のもととなるモニトリアル・システムは19世紀初頭,イギリスで生み出されました。多くの貧民街の子供達に効率的に教授するために,能力別のクラスに分け,カリキュラムの標準化をすすめたそうです(同書・32頁以下)。これに対し,日本の学級制は当初とられていた能力別の「等級制」が,試験により多数の落伍者を出す結果となったために,明治24年になって導入されたものなのだそうです(同書・142頁)。それが日本独特の学級=生活共同体へと転換する契機となったのは,大正期の「生活綴り方運動」「学級文化運動」にあります。学級新聞・学級図書館といった今日よく見られる学級単位の活動は,村落共同体のインベーダーとして位置づけられていた当時の学校システムに対して生徒たちが関心を惹くように展開した「運動」の成果なのです(同書・147-148頁)。こうして機能集団としてよりはむしろ生活共同体・感情共同体として位置づけられた学級はしかし,現在「学級崩壊」に代表される危機に直面しています。筆者はその理由を「学級」という閉鎖的空間がもともと持っている問題性に求めています(同書・172-174頁)。具体的には

  • 生徒側の意図的な参加の契機がない
  • 学級によって規律化された生活を継続しても,代償としての成績上昇という成果は約束されていない
  • 組織の側(学級・教師・教育システム)が顧客としての生徒に対し特権的立場に立っている

といった指摘がなされています。現代の教育問題や青少年に関する問題状況の多くは,こうした「学級」といういびつな空間が与えるストレスと関連しているというのです(同書・211頁)。改善提案として同書は,学級制を放棄するということまでは言いません。しかし,多様な学習形態の一つとして学級制を位置づけ,弾力的な運営をしていくことを提唱しています(同書・212-215頁)。
おそらく本書のいう弾力的運営にあたるのが大学以上の「クラス」という枠組なのでしょう。必修科目の授業で一緒になるだけで,そのうち何組であったかも忘れてしまう,しかし仲のいい友達はクラスの中を中心に増えていくという「クラス」ならばよいのかもしれません。